俳句結社誌[春耕]連載コラム
はいかい漫遊漫歩
 

松尾芭蕉 与謝蕪村 宝井其角 井上井月 正岡子規 高浜虚子
河東碧梧桐 尾崎放哉 種田山頭火 水原秋櫻子 荻原井泉水 杉田久女
           
 橋本多佳子  三橋鷹女  細見綾子 山口誓子   加藤楸邨  中村草田男
 
 
 
3.11.特別寄稿

東日本大震災を風化させない俳句力

松谷富彦(春耕同人)

 岩手、宮城、福島三県を中心に大災害を引き起こした東日本大震災(二〇一一年三月十一日)から間もなく五年の節目を迎える。仙台市の東方沖70㌔の太平洋の海底を震源として発生した地震規模は、マグニチュード9。日本周辺では観測史上最大の地震となった。

 地震にともなって発生した大津波も加わり、被災による死者の数は約一万九千人に達しただけでなく、福島第一原子力発電所の原子炉溶融の事故を誘発する最悪災害となり、被災地復興を妨げている。 

四肢へ地震ただ轟轟と轟轟と    高野ムツオ

 俳句結社「小熊座」主宰の俳人、高野ムツオ氏は、地震があった三月十一日午後二時四十六分、その時を書く。〈 私は仙台駅ビルの地下で、かつての教え子たちと食事をしながら歓談にふけっていました。突然、地の底からわき上がるような恐ろしい音に襲われ、思わず耳をふさぎました。同時に初めて経験する激しい揺れ。今度は、テーブルにしがみついて、やっとの思いで体を支えました。…このままビルが潰れ生き埋めになる。そう覚悟を決めてまもなく、なんとか地震は鎮まり始めたのでした。… 〉(『時代を生きた名句』NHK出版刊)

 二年後、高野氏は震災の瞬間から一年余りの間に詠んだ多数の震災詠を含む第五句集『萬の翅』を上梓する。同句集は、第四十八回蛇笏賞を受賞、戦後生まれ初の同賞受賞者となった。震災詠から引く。

地震の闇百足となりて歩むべし

膨れ這い捲れ攫えり大津波

瓦礫みな人間のもの犬ふぐり

鬼哭とは人が泣くこと夜の梅

陽炎より手が出て握り飯掴む

みちのくの今年の桜すべて供花

犇めきて花の声なり死者の声

ヒロシマ・ナガサキそしてフクシマ花の闇

震災地の句友から届いた震災詠 

高野氏は『時代を生きた名句』の序章「災禍を超えて」で、二人の句友から届いた震災詠を紹介している。

寒昴たれも誰かのただひとり  照井 翠

〈 翠は岩手県釜石で高校の教師をしています。被災したのも高校でした。「数千のくるった悪魔が地面を踏みならしたような地鳴り、それに続く凶暴な揺れ」に襲われたと回想しています。パニック寸前の四百名の生徒とともに校庭、その後体育館へと移動しました。それからのち約ひと月ほど、地域の避難者とともに避難生活を送りました。…〉

孑孑に会ひたるのみの帰宅かな  小原啄葉

〈 盛岡に住む小原啄葉の『黒い浪』(の中の一句)です。 あとがきに「災害の俳句はもとより難しい。言葉の力にも限りがある。しかし、あの恐怖、あの惨状を少しでも伝えおくため、あえて一書をまとめることとした」とあります。…帰宅とは本来心安らぐ、この上なくうれしいものであるはずです。それは笑顔で迎えてくれる家族が居て温かい食事や布団が待っているからです。しかし、それらすべては消え失せ、会うことができたのは手水鉢か用水路で孵化した孑孑だけだったという落胆に、なにもかも失ってしまった人の悲嘆の思いが重ねられています。〉

 そして、高野氏は次の句も紹介する。

三月十日も十一日も鳥帰る   金子兜太

〈 被災地から少し離れた埼玉県熊谷に住む金子兜太の句です。三月十日と、予想だにしなかった悲劇が起こった十一日とを、そのまま並べたものです。三月十日は二通りに読めます。何事も起こらなかった、そして、まさか惨憺たる日が次に控えているとは夢にも思わなかった平凡な一日とする読み方です。もう一つは、東京大空襲があった昭和二十年三月十日とする読み方です。どちらに読んでもいいでしょう。…〉

確定死刑囚が被災地を偲び綴る詠句

 企業連続爆破事件の主犯の一人として、処刑の告知を待ちつつ独房生活四十年を数える確定死刑囚、大道寺將司にとっても未曾有の災害は、深く心を抉る出来事だった。震災の翌年に作家で詩人、俳人の逸見庸氏の強い説得と推挙で出版した第三句集『棺一基』(大田出版刊)で被災地と被災者に思いを馳せた震災句を多数詠んでいる。十句を引く。

揺れ強く壁鳴り止まぬ浅き春

数知らぬ人呑み込みし春の海

加害者となる被曝地の凍返る

“ありがと”と亡き母に女児辛夷咲く

斑雪人を助けし死者の辺に

暮れ残る桜の下の津波跡

地震止まず看護師の声裏返る

(筆者註:当時から大道寺は隔絶された拘置所病舎で多発性骨髄腫の闘病中)

風評といふ差別負ふ胡瓜食ふ

原発に追はるる民や木下闇

胸底は海のとどろやあらえみし

 ちなみに句集『棺一基』は、「第6回日本一行詩大賞」を歌人、永田和弘氏の歌集『夏・2010』とともに受賞した。『棺一基』から三年を経て、この間にがんの苦痛に耐えながら新たに詠んだ句から四百九十句を纏めた第四句集『残(のこん)の月』〈太田出版〉が、やはり逸見庸氏、歌人の福島泰樹氏らの尽力で刊行された。この中の震災詠を六句引く。

凍みる地に撒かれしままの放射能

余寒なほ蜒蜒続く瓦礫かな

削られし表土の嵩や冴え返る

海嘯の跡料峭の地にしるし

五月雨るるフクシマすでに忘らるる

被曝せる獣らの眼に寒昴

「わたしたちは忘れない」四協会呼びかけの震災詠句集

大道寺句が詠うように時の流れの中で風化が確実に進んでいるのも事実。いまもなお立ち直れずに苦しんでいる多数の被災者への救済の手を差し伸べ続けなければならない。同時に原発依存からの脱却など「教訓」を生かした次なる災害への備えを確実にしなければならない節目の五年と考えたい。

風化は物事を曖昧化し、忘却させて行く。だからこそ日本俳句界を代表する俳人協会、現代俳句協会、日本伝統俳句協会、国際俳句交流協会の「わたしたちは忘れない。十七文字に託す大災害の記憶」の呼びかけに会員俳人が応じ、二千六百句を超える震災詠が集まったのだ。

その結晶である句集『東日本大震災を詠む』(俳句四協会編 朝日新聞出版刊)は、大震災から四年後の二〇一五年三月に刊行。その中から十五句を引く。

 大津波引きたる沼や蘆の角     有馬朗人

 励ますも励まさるるも桜待つ       鍵和田秞子

 避難所に回る爪切夕雲雀      柏原眠雨

  炊き出しの五万食とや三月尽     菊池草庵

  瓦礫にも日溜りのあり犬ふぐり     日下節子

 沖へ手を合はせるばかり入彼岸    西條弘子

 地震後の薄き新聞鳥ぐもり      寒河江桑弓

  廃校の検視所となり凍返る      佐藤景心

 故郷は立入禁止花盛り       篠田洋子

 春寒に入る校庭のテント風呂     鈴木わかば

 春雪の被災地にまた降りつもる     高杉風至

 身の丈の節電ぐらし桜餅      花里洋子*

  三・一一津波がテレビはみ出しぬ   堀越胡流

  山百合は捨身の花か除染の地     宮坂静生

 福島の地霊の血潮桃の花      高野ムツオ 

(*花里さんは東京ふうが同人 俳句結社「春耕」同人)
   (「春耕」28年3月号掲載)

                         ①俳句に魂を捧げた俳人たち           

棚山波朗主宰から何か書くようにとお声がかかり、蟇目良雨編集長からも「半ページ空けるからコラムをやらないか」とお勧めいただきました。どうやら本誌の佳句、名句のページを繰る〝箸休め〟に「気軽に読める雑文を」ということのようで、それならばと俳句にまつわる古今の話のネタをアトランダムに拾い、ご披露することにいたしました。「はいかい漫遊漫歩」の「はいかい」は俳諧であり、徘徊でもあります。毎回ご笑読いただければ、幸いです。 
 

〈分け入つても分け入つても青い山〉などの自由律俳句で知られる放浪の俳人、種田山頭火、〈咳をしても一人〉などの句を遺し、小豆島の堂守で逝った尾崎放哉、〈蝶墜ちて大音響の結氷期〉の句で新興俳句の新星として登場した富澤赤黄男、〈水枕ガバリと寒い海がある〉や〈おそるべき君らの乳房夏来る〉などで知られる西東三鬼。

 家業の破綻や一流企業からのドロップアウト、あるいは歯科医の業を捨て〝俳句に魂を捧げた〟俳人たち。一家離散、生活困窮を招き、家族に苦労を押し付けた彼らだが、悪魔に魂を売ったファウスト博士のように、その所業と引き換えに現代俳句に多くの佳句と文芸的業績を遺したことは記憶しておきたい。

三鬼と「天狼」の同志であった山口誓子は「あなたはよく俳句で一生を棒に振ったと云はれてをりました。しかし、ほんとは俳句といふ棒で一生を貫いたと思ってをられたのではないでせうか。」と弔辞で句友を悼んだ。師系、流派は違っても、俳句文芸に大きな足跡を記して逝った俳人たちの冥福を祈りたい。

                                                                     (「春耕」26年5月号掲載)

                                 ②俳号あれこれ   

芭蕉も蕪村も俳号。江戸月並み俳句からの脱却を標ぼうして俳句革新に立ち上った子規も弟子の虚子、碧梧桐、大学予備門の学友、漱石も俳号で俳句を発表した。その俳号の決め方が面白い。

結核(カリエス)を病んだ子規(本名常規)の俳号「子規」の意味は、ほととぎす(時鳥、子規、杜鵑、不如帰、郭公)=結核の別名。無季自由律俳句を提唱した荻原井泉水(本名幾太郎)は、納音(なっちん=生年月日による運命占いの一種)から該当用語「井泉水」を俳号にした。

 井泉水主宰の俳誌『層雲』に投稿して自由律俳句を始めた種田山頭火(本名正一)は、師に倣って納音から「山頭火」を俳号に選んだ。彼の生年だと該当名は「楊柳木」だが、30種類の納音用語の中から音調と「山頂で燃え盛る火」の意が気に入った「山頭火」に決めたと書き残している。

 本名と読みが同じ俳号の俳人は高浜虚子(本名清)。ちょっと苦しいが、本名秉五郎(へいごろう)の音の響きから作号したのが河東碧梧桐(へきごとう)だ。激しい表現と前衛性で異彩を放った三橋鷹女は、本名たか子に闘争的な猛禽の文字を当てた。ちなみに棚山主宰の俳号「波朗」も本名の春雄、古参同人の山田春生さんも春夫の本名を音で生かしている。

「訓読み」で名づけた俳号だったが、師匠の虚子のひと声により「音読み」で膾炙するようになったのが山口誓子(せいし)。訓読みすると、本名新比古(ちかひこ)の音に由来の誓子(ちかいこ)と読ませるつもりだったが、呼ばれてみれば本人も気に入り、以後は
「せいし」となった。

                                                                      (「春耕」26年6月号掲載)
   
                     ③お長屋の老人会や鯨汁  正岡子規

クジラ
(Wikipediaより転借)

 食紅で縁取られた鯨のベーコンと鯵のフライは、わが青春の定番だった。オーストラリアの提訴を受けた国際司法裁判所が平成26年4月、南極海での日本の調査捕鯨不許可の判決を下した。

1853年(嘉永6年)、ペリー提督が黒船4隻を率いて来航、開国を幕府に迫った狙いは、自国捕鯨船への燃料と水、食料の補給にあった。当時、欧米各国は灯油のための“泳ぐオイルタンク”として鯨の乱獲を続けていたのだ。

石油の登場で不用になると、一転動物愛護を題目に日本の伝統的な食文化を「野蛮」の相言葉で否定。中国では猿を、韓国では犬を食べる食文化がある。それを食習慣のない他国民が嫌悪したり、非難する権利があるのだろうか。ちなみに日本を提訴したオーストラリアでは、カンガルーを食べる食文化がある。

こんなとき面白い記事を新聞で見つけた。〈 都市部での雑食が目立つカラスが、茨城県の一部地域では食用とされている。戦後間もない頃から続く食文化を守ろうと、地域の人たちが特産品にできないか、研究を始めている。…同県内で2011年度に狩猟目的で捕られたカラスは全国最多の4628羽。…欧州では1900年代初めまでジビエ(野生鳥獣)料理として調理され、レシピ集に調理法が残っている。〉(朝日新聞) フランス料理では、鳩も食材。 

をのをのの喰過がほや鯨汁       高井 几董

霾るとさらし鯨を買うて来し         吉田康子

神の留守くぢらステーキ食うべけり     杉浦典子

人間の話に戻る鯨鍋          相良牧人

                                                                      (「春耕」26年7月号掲載)
              
④戦争を知らぬ子ばかり原爆忌  稲畑汀子 
ウラン原爆リトルボーイ プルトニウム原爆ファットマン
 (Wikipediaより転借)

  1945年8月6日にウラン原爆「リットルボーイ」が廣島に、続いて3日後の9日にプルトニウム原爆「ファットマン」が長崎に投下され、30万人の生命が一瞬にして奪われた。

「この2発が、戦争を長引かせることでより多くの命を失うのを防いだ」と投下国のエクスキューズだ。そうだろうか?廣島に原爆が落とされた当時、筆者は小学3年生だったが、疎開先の岐阜の田舎町で投下翌日には「廣島にB29が物凄い新型爆弾を落とした」という大人たちのひそひそ話を聞いた。

いま思えば、1発の新型爆弾で日本列島に衝撃が走っていたのだ。投下側の情報収集力なら、廣島のこの1発で「戦争終結」の目処は確認できたはず。だが、3日後、彼らは必要のない止めの2発目を長崎に落とした。ウラン型とプルトニウム型原爆の性能実験が本音だったと言ったら言い過ぎだろうか。

原爆の核兵器の残虐、非人道性をリアルタイムで体験した日本人は、70歳以上になってしまった69回目の原爆忌である。

 

原爆の日の拡声器沖へ向く               西東三鬼

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ       金子兜太

眼底に闇棲む埴輪ひろしま忌             山口健浩

浦上川万燈流し原爆忌            安陪青人

原爆の日の洗面に顔浸けて               平塚静塔 

吊皮に伸びる百の手原爆忌               神藏 器

原爆忌しじまの底の鳩の声                山崎赤秋

 広島忌振るべき塩を探しをり             櫂未知子

                                                                     (「春耕」26年8月号掲載)

 
                 ⑤戦争未亡人として生きた俳人

馬場移公子

 「戦後レジーム(体制)からの脱却」を唱える安倍晋三首相は、7月1日、日本国憲法第9条(戦争放棄・交戦権の否認など)の解釈を変更し、集団的自衛権を認める閣議決定を行った。日米同盟を組んでいるアメリカが戦いで危なくなったら自衛隊が応援、参戦できる「普通の国」にしようと言うのが狙い。

日本が太平洋戦争に向かって坂を転げ始める状況を詠んだ渡邊白泉の<戦争が廊下の奥に立ってゐた>の句が不気味に浮かんでくる。

 セルビア人青年がオーストリア=ハンガリー帝国皇太子夫妻をピストルで暗殺したサラエボ事件が引き金になった第一次世界大戦から今年は百年。1500万人余とも言われる犠牲者を出した大戦は、たった2発の銃弾から勃発したことを忘れてはならない。

 金子伊昔紅(兜太の父)の『雁坂』さらに『馬酔木』同人として数多くの佳句を遺し、平成6年に75歳で没した馬場移公子(第2句集「峡の雲」で第25回俳人協会賞受賞)は、結婚4年で夫が戦死した戦争未亡人だった。寡婦となった移公子は、東京から秩父の生家に戻り、蚕種業の稼業を継ぎ、以後、山峡の地を離れることはなかった。

 第1句集『峡の音』に収められている一句<亡き兵の妻の名負ふも雁の頃>は、彼女の無念さ、寂しさが漂う。同じ句集に「亡夫、三十三回忌」の前書を付けて<梅散るやありあり遠き戦死報>の句も。

戦争に加われば、かならず犠牲者が出る。移公子と同じように太平洋戦争で戦争未亡人となった日本人女性は、約188万人(1949年、厚生省調査)。若くして「亡き兵の妻」となった悲しみを胸に俳句に生きた移公子は、<いなびかり生涯峡を出ず住むか>を全うして夫の元に旅立った。

                                                                      (「春耕」26年9月号掲載)

                    ⑥「スカトロ俳句考」

 “荒凡夫”と自称、95歳のいまも前衛俳句の現役、金子兜太先生。ご存知の通りスカトロ俳句でも勇名を馳せ、句集『金子兜太 自選自解99句』では<古手拭蟹のほとりに置きて糞(ま)る><大頭の黒蟻西行の野糞>など3句を自選。

古手拭の句は、トラック島で米軍の猛攻を受けていたときの作句で「汗まみれの、黒くなったような手拭を、…いつも腰にぶら下げていた。…誰もいない波打ち際にきてにわかに便意を催す。手拭を砂の上に置き、かがみ込むと蟹が歩いていた。いま思うと不気味なくらい静かな一ときだった」と自解。

秩父の山峡の村医者の妻として長男の兜太、次男で医院を継いだ千侍ら6人の子を育てた母はるを恋う句も<長寿の母うんこのようにわれを産みぬ>と詠む。父の伊昔紅も俳人で「秩父音頭」の復活者。独協中学で水原秋櫻子と同級で、秋櫻子が東大医学部、伊昔紅は京都府立医専(現・府立医大)卒業後も「馬酔木」同人として交流は続き、秩父で開業医をしながら「雁坂」を主宰、馬場移公子などを育てた。息子に負けぬ型破りなスカトロ俳人で<元日や餅で押し出す去年糞>という猛烈句を残す。

うぐいすの餅に糞する縁のさき            松尾芭蕉
 
 大徳の糞ひりおはす枯野かな             与謝蕪村 

慈悲すれば糞をするなり雀の子           小林一茶

初午や土手は行来の馬の糞         正岡子規

ハルポマルクス神の糞より生まれたり        西東三鬼

八百万の神々のなかには伊邪那美命の雲古から生まれた波邇夜須毘古、波邇夜須毘売の神も御座すお国柄。そのDNAを受け継ぐスカトロ俳句のケツ作は尽きず。

                                                                    (「春耕」26年10月号掲載)

                    ⑦国産ワインと日本ワイン 

 山梨県・勝沼のブドウ園
(Wikipediaより転借)

 今年(2014年)のボジョレーヌーボーの解禁は十一月二十日。ところで「国産ワイン」と「日本ワイン」の違いをご存知?両者はまったくの別物。

 輸入した外国産ブドウ、ブドウ果汁で醸造、あるいは外国産ワインをブレンドするなどして国内で造られたワインが「国産ワイン」の正体。これ違法、脱法にあらず。と言うのも、日本の酒税法はワインを「果実酒」と規定しているため、ブドウ以外の果汁を原料に醸造したものでも「ワイン」。つまり、輸入ブドウでも国内で醸造すれば「国産ワイン」となる仕組み。

 国産ワインのうち国産ブドウを原料にしたものは6%ほどで、90%以上が外国産ブドウ、果汁を輸入し、国内で醸造、ブレンドした「国産ワイン」だ。

 違法性がないとは言え、何やら胡散臭さを纏った「国産ワイン」に対するのが「日本ワイン」。定義は明快、「日本で収穫された国産ブドウだけで醸造したワイン」。国産ワインと日本ワインの生産量の比率は現在5対1だが、ワインブームの定着で既存のワインメーカーだけでなく、ブドウ生産者がワイナリー参入に続々と名乗りを上げており、比率は年々縮まっている。

 この流れを受けて、製法や原料を細かく規定することでブランド力を高め、国際競争力を向上させるため<自国ワインの品質を政府が保証する新法「ワイン法」(仮称)の制定に向けた準備が自民党内で進んでいる。>(八月八日付け毎日新聞)という。集団的自衛権行使のため憲法の解釈変更に血道を上げるより、よほど国益に叶う立法ですよ、安倍さん。

胸乳あらはに採りし葡萄を醸すなり   松瀬青々

甕たのし葡萄の美酒がわき澄める    杉田久女

さまざまな記憶の赤やボジョレー飲む   俵 万智

                                                                    (「春耕」26年11月号掲載)

                 ⑧辞世の句あれこれ            

俳人の辞世の句と言えば、松尾芭蕉の〈 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉、正岡子規の〈 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 〉がすぐに浮ぶ。子規の弟子・高浜虚子の場合、昭和三十四年三月三十日の句会で詠んだ〈 春の山屍をうめて空しかり 〉が辞世の句と言われている。この句を詠んだ二日後に脳溢血で倒れ、同四月八日に八十五歳で亡くなった。

 東大予備門の同級生の子規に勧められて俳句を作り始めた夏目漱石(俳号愚陀仏)は、作家への道に進んだが、折に触れて句を作った。死の二十四日前に詠んだ〈 饅頭に礼拝すれば晴れて秋 〉の句が謂わば辞世の句となった。

 漱石は以前から文通していた二人の雲水が神戸から上京してきたとき、自宅に一週間ほど泊め、東京や日光を見物させて面倒をみた。彼らは鏡子夫人の手料理を喜んで腹いっぱい食べ、その飾らね姿が漱石をいたく感心させた。寺に戻った貧しい雲水が、お礼にと送ってきた安物の饅頭をうれしそうに手にした漱石が詠んだ句だった。大正五年十二月九日没。享年四十九歳。

 芥川龍之介が俳句を本格的に詠み始めたのは、小説「鼻」を発表した大正五年ごろからという。漱石に激賞され、これを機に漱石山房に足を運ぶようになる。漱石や久米正雄(俳号三汀)との交友、さらには高浜虚子と同じ鎌倉に住むようになったことで、俳誌「ホトトギス」への投句と作句の環境が整った。

昭和二年七月二十四日、龍之介は自死する直前、同居の伯母に〈 水涕や鼻の先だけ暮れ殘る 〉の自句の色紙を乞食俳人井上井月を世に紹介した主治医、下島勲に渡すように頼み、寝室に戻って致死量の睡眠薬を仰いだ。句は「澄江堂句集」七十七句中の一句である。「鼻」で登場、鼻で人生を閉じた。享年三十五歳。                      

                                                                    (「春耕」26年12月号掲載)

⑨歌舞伎役者と俳名
 
歌舞伎十八番  守川周重筆

 俳号と似た言葉に俳名(はいみょう)がある。元来は、どちらも俳句を嗜む俳人たちが運座で名乗りを上げる便宜を兼ねて自称した雅号だった。それが江戸時代中期以降、歌舞伎役者が舞台上の芸名(名跡)とは別に、自由に自称できる別名として俳名を使うようになる。

 人気役者にとって、贔屓筋の旦那衆の句会に招かれるようになり、俳句の教養は、舞台の演技の上でも必要だった。俳句をやるので俳名を持った役者だけではなく、俳句を詠まない役者も使い出し、俳名は歌舞伎役者の別名を指すようになる。

そして、梨園では、俳名も芸名(名跡)とともに後継者に引き継がれ、別名(俳名)を名跡にする役者も登場。例えば尾上梅幸。なんと「梅幸」は、初代尾上菊五郎が別名として名乗り、二世と五世菊五郎に引き継がれた俳名だった。そして、初代菊五郎に許されて彼の俳名を名跡にしたのが、初代尾上梅幸。以来、大名跡の梅幸と菊五郎の俳名がそれぞれ受け継がれることになった。ちなみに七代目梅幸の俳名は扇舎。

 九代目松本幸四郎を襲名した六代目市川染五郎は、「ラ・マンチャの男」「王様と私」などミュージカルや現代劇での活躍でも知られるが、「錦升」の俳名を持つ俳人でもある。次女で女優の松たか子の幼い日を詠んだ句に〈 ぼたん雪降るを眺める隆子かわいい〉「王様と私」のイギリス公演の折の詠句〈 潔き汗の奈落に花一輪 〉など。

 高浜虚子に教えを受けた母方の祖父、初代中村吉右衛門には〈 雪の日や雪のせりふを口ずさむ  〉〈 破れ蓮の動くをみてもせりふかな 〉などの遺句がある。

                                                                      (「春耕」27年1月号掲載)

                                ⑩長寿番組と俳句                

 テレビの長寿番組と言えば61年超の「のど自慢」に「紅白歌合戦」、60年超の「大相撲中継」とNHK3番組が断トツで並ぶ。民放の長寿5は、「月曜ミステリーシアター」( TBS 58年超 )、「日曜劇場」(  同57年超 )、「皇室アルバム」( 毎日放送54年超 )、「よしもと新喜劇」( 同52年超 )、「SHIONOGI MUSIC FAIR」( フジテレビ50年超 )。

ちなみに民放の現役の長寿番組をいくつか拾うと「キューピー3分クッキング」(日本テレ系51年超 )「題名のない音楽会」(テレ朝系48年超 )、「笑点」(日本テレビ系48年超 )、「日曜洋画劇場」(テレ朝系47年超 )、「話題の医学」(テレビ東京系47年超 )、「サザエさん」(フジテレ系46年超 )、「新婚さんいらっしゃい!」(テレ朝系43年超 )、「徹子の部屋」(テレ朝系38年超 )など。32年続いたフジテレ系「笑っていいとも!」は昨年終了。

ところで民放ローカル局が放映するニュース番組に、子規、虚子、草田男、波郷らを輩出した“俳句王国 ”らしい異色の長寿コーナーがある。フジテレビ系列のテレビ愛媛「EBCスーパーニュース」の “きょうの俳句 ”コーナー。季節の映像とBGMにのせたエンディング前の一分間のミニコーナーだが、1985年十月スタート以来三十年間、愛媛県生まれの俳人を中心に一日一句の選句と約百八十字の季語の解説台本を書き続けているのが、松山市出身の俳人、池内けい吾さん( 79歳・俳句結社「春耕」同人会長 )。「殺伐な事件報道の中の一服の清涼剤として、幸いにも視聴者の温かいご支援で続けています」と語る。

 二月の句から   
  
  満開にして淋しさや寒桜          高浜虚子

  春隣吾子の微笑の日々あたらし           篠原  梵

  鬼やらひ二三こゑして子に任す          石田波郷                

                                                                      (「春耕」27年2月号掲載)

  ⑪越中富山の薬とエボラ出血熱   
 
エボラ出血熱ウィルス
 (Wikipediaより転借)

 西アフリカを中心に流行が拡大、欧米諸国にも飛び火し、世界を震撼させている致死率四〇~九〇%のエボラ出血熱。二〇一五年一月二十五日現在の感染者は二万二千九十二人、死者は八千八百十人(WHO調べ)に達している。

エボラウイルスに対するワクチンは未開発で、有効な医薬品は確立されていないのが現状。そんな中で急浮上してきたのが、富士フィルムグループの富山化学工業と富山大学医学部の白木公康教授が共同開発したアビガン。二〇一四年三月にインフルエンザ治療薬として国内承認されたばかりの新薬だが、ウイルスの構造が似ているエボラ出血熱にも有効ではないかとWHOが注目、感染患者への臨床投与に踏み切ったのだ。すでにフランス、ドイツ、スペイン、ノルウエー、アメリカが、承認前の緊急措置でアビガンを エボラ出血熱患者に投与、改善効果が認められた。厚生労働省も国内で患者が発生した場合、アビガンの転用を容認。、“ 越中富山の薬売り ”の伝統の底力が、一躍脚光を浴びることに。

 〈 坂口安吾が『安吾日本地理』で述べているが、富山へ売薬の取材にやってきて、鎮痛剤のケロリン(内外薬品の製造販売薬)という薬が一番よく売れると聞いて帰った。富山出身の知人に聞いてみても、頭痛には「ケロリン」がきくと教えられる。それで一度ためしに「ケロリン」なる薬をのんでみたいと思うのであるが、買おうにも「ケロリン」なる名前が文士としてひっかかって、薬屋で「ケロリンください」という勇気は持ちあわせていなかった。ところが、女房に話すと、言下に「ケロリンならウチにもありますよ」と茶ダンスから当の薬をとりだしてみせた。〉(玉川しんめい著『反魂丹の文化史―越中富山の薬売り―』)

富山県出身の俳人の句から

  花あれば西行の日とおもふべし          角川源義

  日本海見し日の短か波郷の忌          古沢太穂

                                                                      (「春耕」27年3月号掲載)

⑫不条理を詠む無季俳句

  強制的に生命を奪い取る戦争や災害を前にしたとき、有季定型派の中にも、あえて季語のない句を詠み、目前の不条理に対峙した俳人は、多い。戦争も災害も季節を越えた不条理であり、季語(季題)に拘泥していては、実体を十七音の短詩型で表現しきれないことがあるからだ。

 東日本大震災の被災地、宮城県多賀城市在住で、仙台市内で震災に合った高野ムツオさんが、被災から二年八か月後に刊行した第5句集「萬の翅」(角川学芸出版)の平成二十三年詠句で「三月十一日」の前書をつけた一連の震災俳句の冒頭四句は、無季句と季違い句で始まる。

四肢へ地震ただ轟轟と轟轟と

天地は一つたらんと大地震

地震の闇百足となりて歩むべし(百足:夏の季語)

膨れ這い捲れ攫えり大津波

そして、季語の有季定型句も加わっていく。

春光の泥ことごとく死者の声

人呑みし泥の光や蘆の角

瓦礫みな人間のもの犬ふぐり

鬼哭とは人が泣くこと夜の梅

みちのくの今年の桜すべて供花

渡邊白泉は近づいてくる不条理=戦争の不穏の空気を〈 戦争が廊下の奥に立ってゐた 〉、藤木清子は生命簒奪の戦争の実相を〈 戦死せり三十二枚の歯をそろへ 〉と無季句に詠んだ。(平成二十六年度の「蛇笏賞」は高野さんの「萬の翅」と深見けん二さんの「菫濃く」の両句集が受賞した。)

                      *本号(4月号)から毎号2話同時掲載となりました。 (「春耕」27年4月号掲載)

               ⑬秋櫻子と悟堂を引き合わせた男  

サンショウクイ(山椒喰)
(Wikipediaより転借)

 名句が新たな季語を生んだ代表例に、中村草田男の〈 万緑の中や吾子の歯生え初むる 〉の「万緑」(夏)がある。山口誓子の〈 青野ゆき馬は片眼に人を見る 〉の句が詠まれた後、「青野」(夏)が、季語として定着。また句集名に使用した「炎昼」も真夏の季語として一般化した。

 水原秋櫻子は「光悦寺」の前書付きで〈 山椒喰松風絶えて鳴き澄める 〉と〈山椒喰光悦の釜はいと寂びたり〉の句を詠む。ちなみに「山椒喰」は、スズメ目サンショウクイ科の夏鳥。山谷春潮著『野鳥歳時記』には、「白鶺鴒に似た瀟洒な鳥…空を飛翔しながら鈴を振るように、ピリリリ、ピーリーリまたはヒリリヒリリなどと涼しく鳴く。山椒は小粒でもピリッとくるというところから山椒喰という名が出たともいうが…」と。秋櫻子の句で「山椒喰」も夏の季語に。

山本健吉編『最新俳句歳時記』(文芸春秋刊)には、秋櫻子の「松風絶えて」の句のほか〈山椒喰櫟は花を垂れそめし 山谷春潮 〉〈 朝飯や輪にまふこゑのさんせうくひ 木津柳芽 〉などの句が例句として出ている。秋櫻子が山椒喰のことを知ったのは、門下の俳人、山谷春潮が引き合わせた日本野鳥の会の創設者で野鳥研究家、歌人の中西悟堂からだった。

『定本 野鳥記』第三巻『鳥を語る』で、悟堂は秋櫻子の山椒喰二句について〈 この句のできたのは昭和十五年であるが、…サンショウクイの出現した最初の年ということになる。季節に敏感な、季節にやかましい俳人が、何百年このかた、ツバメについで今日の東京へも京・大坂へも中京へも、平野と低山とを問わず数多くわたってくるこの鳥を逸していたとはどうしたことであったろう。〉と書き記している。春潮は、悟堂門下の野鳥観察者でもあり、師二人の求めで執筆したのが『野鳥歳時記』。脚本家、倉本総さん(本名、山谷馨)の実父である。
                                                                    
                                                                     (「春耕」27年4月号掲載)
 
                             ⑭禁じ手てんこ盛り名句 

鰹のたたき

  思想の科学研究会の会長を務め、日本戦没学生記念会「わだつみ会」の再建に尽力、『型の文化再興』、多田道太郎との共著『「いき」の構造を読む』など多数の著書を残した安田武の『老舗考』の冒頭ページを開くと、〈 目には青葉山ほととぎす初鰹 素堂 〉の一句から始まる。安田は〈 山口素堂の名は知らなくても、この句そのものを知らぬ、見たことも聞いたこともないという人は、まずあるまい。〉と書く。

 〈 素堂といえば、芭蕉とも親交あった同時代人、年譜に寄れば、享保元年(一七一六)没とあるから、すでにざっと三百年…格別これといった “曲”も “巧み”もなさそうに思えるこの句が、どうして、こんなにも長く、広く、私たちのうちに口承されてきたのであろうか。こう考えるとき、私は日本人に固有で、独自な感覚、美意識の世界というものに、つくづく思い到らざるをえないのだ。〉

 上五の「目には青葉」(視覚)、中七の「山ほととぎす」(聴覚)、下五の「初鰹」(味覚と舌触り=触覚)、さらにこれらに出合う季節「薫風の候」の嗅覚と日本人の鋭敏な五官をわずか十七音の詩形のなかにすべて謳い上げた作句テクニック!〈 ここに、この句が、長く人口に膾炙してきた所以がある 〉と安田。

 この句のすごい点は、夏の季語(青葉・ほととぎす・初鰹)の三重季重ねに加えて、堂々の三段切れ、と作句作法の禁じ手を悠然と破り、名句に仕上げているところ。しかも素堂の心憎いところは、上五に字余り「は」の助詞を加えることで、滑らかに中、下句が続き、三段切れの弊を解消している技だ。

芭蕉は二歳年長の素堂を「詩文の事は素堂くはしければ」と一目置き、素堂も芭蕉を無二の親友として敬愛、師の死後、「亡友芭蕉居士、近来山家集の風躰をしたはしければ、追悼に此の集を読誦するものならし」の前書を付け〈 あはれさや時雨るる頃の山家集 〉の追悼句を詠んでいる。

                                                                     (「春耕」27年5月号掲載)

 ⑮おっぱい俳句
 
アレクサンドル・カバネル「ヴィーナスの誕生」

♪夏が来れば、思い出すのは、水芭蕉の花と西東三鬼の〈 おそるべき君等の乳房夏来る 〉の句。終戦一年後の昭和二十一年(一九四六)、四十六歳の詠だ。

 三鬼は「薄いブラウスに盛り上がった豊かな乳房は、見まいとおもっても見ないではいられない。彼女等はそれを知っていて誇示する。彼女等は知らなくても万物の創造者が誇示せしめる」と自句自解。

〈 人類の旬の土偶のおっぱいよ 〉の句で池田澄子が喝破した生命のシンボル、乳房を詠んだ俳句は数多い。男性俳人のピープ的な観察句、女性俳人のナルシシズムの気配の句。乳房俳句で分かる男と女の平行線…。

 浴衣着て少女の乳房高からず       高浜虚子

 大乳房たぷたぷたれて蚕飼かな        飯田蛇笏

 すばらしい乳房だ蚊が居る          尾崎放哉

 乳房やああ身をそらす春の虹        富澤赤黄男

 花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく       眞鍋呉夫

 授乳後の胸拭きてをり麦青し        飴山實

 汗濡れし乳房覗かせ手渡すラムネ      風天(渥美清)

 大西瓜乳房ゆがめて抱え来る       杉阪大和

菖蒲湯に端然と胸乳ふくまする       細見綾子

湯の中に乳房いとしく秋の夜        鈴木しづ子

茱萸は黄に乙女めくなり吾ちぶさ       三橋鷹女

ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき      桂信子

はるうれひ乳房はすこしお湯に浮く      川上弘美

 乳房みな涙のかたち葛の花        中島秀子
 
                                                                
 (「春耕」27年5月号掲載
                
 ⑯俳人太宰治 
 
太宰治
(Wikipediaより転借)

桜桃忌(六月十九日)がめぐってきた。青森県生まれの後輩、寺山修司がそうだったように中学、高校時代の太宰治も仲間と同人誌を発行、十七歳ころには小説「最後の太閤記」の発表や俳句作りに励んでいた。旧制弘前高校に入学した年、敬愛していた作家、芥川龍之介が自殺、ショックで一時学業を放棄する。このころの太宰の句に〈 幇間の道化窶れやみづつぱな〉がある。そう、師と仰ぐ芥川が辞世の句とした〈 水洟や鼻の先だけ暮れ残る〉を意識した句だ。

太宰は東大仏文科に進むもののデカダンな日々を送り、留年を重ねた揚げ句、除籍となるが、短編小説を書き続け、初めて同人誌以外の雑誌『文藝』に発表した「逆行」が、憧れの第一回芥川賞の候補作品に。だが、次点で落選、受賞作は石川達三の「蒼氓」だった。

太宰は、寺山のように俳句や短歌を直接世に問うことはなかったものの、作句は続けていた。一九四一年に発表した自伝的短編「東京八景」で書く。〈 朱麟堂と号して俳句に凝つたりしてゐた。〉と。七年前(一九三四年)に書き上げた初期の代表作「葉」、三五年の「ダス・ゲマイネ」、三七年の「虚構の春」の作品中にも自作句がさりげなく配されている。例えば、「葉」には〈 外はみぞれ、何を笑ふやレニン像〉〈 病む妻や、とどこほる雲鬼すすき〉ほかにこのころの句には、〈 旅人よゆくて野ざらし知らやいさ〉〈 今朝は初雪あゝ誰もゐないのだ〉〈 老ひそめし身の紅かねや今朝の寒〉〈 追憶のぜひもなきわれ春の鳥〉など。

三九年一月、師の井伏鱒二の媒酌で石原美知子と結婚。美知子を紹介したのが太宰、伊馬春部とともに井伏門下 “三羽烏”と言われた高田英之助(東京日日新聞=現毎日新聞の記者)。高田の許嫁、須美子の女学校時代の後輩が美智子だった。翌年結婚した高田夫妻への太宰の祝婚句 〈 春服の色教へてよ揚雲雀〉

                                                                      (「春耕」27年6月号掲載)
 
                               ⑰「ぼっち席」あります

学生食堂の“ぼっち席”

 文部科学省は二〇一四年秋、大学の国際競争力を高める目的で、重点的に財政支援する「スーパーグローバル大学」に国公私立大学三十七校(トップ型十三校、グローバル化牽引型二十四校)を選定。国は選定大学に対して十年間、トップ型大に毎年一大学当り四億二千万円、牽引型大に同一億七千万円の補助金を支給、日本の大学の国際化の促進とグローバルな人材育成を急がせるというもの。ちなみにトップ型大は、北大、東北大、筑波大、東大、東京医科歯科大、東工大、名大、京大、阪大、広島大、九大、慶大、早大。超難関校揃いだが、そこで学ぶ学生の現状は、いかに。現職教員から聞いた唖然とする実態の一端を紹介する。

理工系学部の新入生歓迎式で学部長が祝辞の最後に「学部の学生食堂も新装、皆さんが気を使わずに食事ができる“ぼっち席”も十分確保しましたので、安心して利用してください」とにこやかに締めくくった。現代学生気質に疎い人のために説明すると、彼らは自分一人がプラス面でもマイナス面でも目立つことを極端に怖れる。食堂での独り食事は、友人なしと見られるからとトイレの中でコンビニ弁当を食べるのは当たり前。それが、前と左右に板仕切りのある “ぼっち席 ”(独りぼっち用の席)だと、安心して食事のできる場に変るというのだ。

大学が教員に配る「べからず集」には、男子学生に対して「君」呼ばわりはご法度。「さん」でなければセクハラになるから、という理由。「お母さんに馬鹿と言われたことがないのに、なぜ先生が言うんですか」とパニックになる学生。「そんなことも知らないのか」と言ったらモンスターペアレントから即抗議が。

進学生襟足靑く上京す         篠宮信子

銀行に口座開きて入学す       堀之内和子

退場はジャズに合せて入学子      満田春日

                                                                      (「春耕」27年6月号掲載)
             
                ⑱世界文化遺産の富士山


河口湖から富士山
(Wikipediaより転借)

 富士山(3776m)の山開きは、従来七月一日から八月末までの二か月間だったが、世界文化遺産登録を機に山の実態に合わせ、二千十四年から大きく変更。登山口が山梨県か静岡県かで、山開きと登山期間の異なるのが特徴だ。

 昨年の場合、「吉田口(山梨県側)七月一日~九月十四日 富士宮口・須走口(静岡県)七月十日~九月十日」これに合せて山小屋も営業。しかし、今後山開き(夏山登山期間)は、固定ではなく、変更もあるので要注意。

 昨シーズンから汚染防止のトイレ整備など経費捻出のため本格導入した入山料(富士山保全協力金)だが、開山期間中、登山者に一人千円の協力を任意で求めたところ、応じたのは三割程度。山梨、静岡両県合わせて約十六万人から一億五千八百万円が寄せられたが、目標額の五六・五%に止まった。

 十六年前から山頂の山小屋「扇屋」で開山期間中、従業員として働きながら、吊し雲など天空の写真を撮り続けている富士山写真家、小岩井大輔さんは「世界遺産登録から一周年を迎えた昨年は、外国人登山者は増えましたが、日本人登山者は減り、週末でも早朝以外はガラガラの山頂でした。報道では悪天候が続いたことやマイカー規制が長かったことが原因とされていますが、…どうなのでしょう?」と六十五日間の山頂生活を振り返る。さて、この夏は?

 堀本裕樹編著『富士百句で俳句入門』(筑摩書房刊)の「夏の季」からー

 不二ひとつうづみのこして若葉哉     与謝蕪村

 果は我枕なるべし夏の富士          陶 官鼠

 郭公の声はばかれり全裸富士       沢木欣一

 裏富士の月夜の空を黄金虫        飯田龍太

 五月富士湧水砂を噴き上ぐる       塚本 清

                                                                      (「春耕」27年7月号掲載)

                   ⑲笛吹川の徒歩鵜

 笛吹川の徒歩鵜飼
(2014.8.19.撮影)

夏の風物詩の鵜飼と言えば〈 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 松尾芭蕉 〉の句が浮かぶ。「美濃の長良川にてあまたの鵜を使ふを見にゆき侍りて」と前詞にある岐阜長良川の鵜飼は、舳に篝火を焚いた鵜舟から一人の鵜匠が十二羽の鵜に鮎を呑ませる華麗な手綱捌きで知られる。

 この長良川鵜飼は宮内庁の御料鵜飼、つまり皇室直轄行事であり、鵜匠は「宮内庁式部職」の肩書を持つれっきとした国家公務員である。同様漁法の犬山鵜飼、大洲鵜飼など各地の鵜飼は、いずれも観光鵜飼。

 観光鵜飼ながら現在では全国でただ一か所だけになった鵜飼が、八百年の伝統を持つ山梨県笛吹川の徒歩鵜(かちう)。文字通り鵜匠と鵜が共に川に入り、流れを遡りながら鮎を獲る人鵜一体のめずらしい鵜飼だ。

 笛吹市が市民団体「笛吹川鵜飼保存会」の協力を得て、毎年七月二十日~八月十九日の一か月間毎夕開催。鵜(海鵜)の保有数は十五羽(いずれも雄)で、期間中、鵜は一羽ずつ鵜籠暮らしに入り、毎夕、笛吹川での鮎の鵜呑みに励む。

 鵜呑みの鮎は鵜の胃の腑には落ちず、鵜匠にその都度吐かされ、与えられる餌は解凍した鯖やほっけ。雌は国の保護鳥として飼育が禁じられているため、鵜飼に使われるのは雄ばかり。恋する相手のいない男所帯の中で七、八年、鮎漁に奉仕する。芭蕉ならずとも〈 やがて悲しき 〉飼い鵜たち。

 笛吹川徒歩鵜の正式名称は、笛吹川いさわ鵜飼。開催場所は、JR中央線石和温泉駅から徒歩十五分の「鵜飼橋」下流側付近。

 夕影を待てるがごとき鵜籠かな     後藤夜半

 早瀬ゆく鵜綱のもつれもつるるまま    橋本多佳子

 火の海に透きて潜れる荒鵜かな     野見山朱鳥

                                                                      (「春耕」27年7月号掲載) 

⑳八紘一宇という亡霊
八紘一宇の塔
(現在は平和の塔と呼称 宮崎市平和台公園所在)
(Wikipediaから転借)

 戦争を放棄して七十年、平和憲法とともに歩んできた日本の国会で、耳を疑う発言が飛び出した。二〇一五年三月、参議院予算委員会で質問に立った自民党の三原じゅん子議員(50)が、企業の国際的な税金逃れを取り上げる中で「八紘一宇の理念の下に、税の仕組みを運用していくことを安倍総理こそが世界に提案すべきだ」と問うたのだ。

 唐突に飛び出した戦前戦中の亡霊スローガン「八紘一宇」。「世界は天皇の下に一家をなす」の意味が込められた侵略正当化の標語だと戦後生まれのタレント議員が知って使ったとは思えない。戦争の怖さを知らない政権によって戦争の危険に近づく懸念の中で、発言させた“背後 ”の意図こそ恐ろしい。

 八紘一宇と並んで国民の頭上に降り注いだスローガンのいくつかを引く。〈 ぜいたくは敵だ!〉〈 産めよ殖せよ国のため 〉〈 欲しがりません 勝つまでは 〉以下は、太平洋戦争の決戦スローガン。〈 この一戦 何が何でも やりぬくぞ 〉〈 見たか戦果 知ったか底力 〉〈 進め一億 火の玉だ 〉〈 屠れ英米 われらの敵だ 〉〈 戦い抜こう 大東亜戦、この感激を増産へ 〉〈 突け 米英の心臓を 〉〈 今に見ろ 敵の本土は焼け野原 〉〈 撃滅へ一億怒濤の体当たり 〉

一方、戦況と生活状況悪化の中で、鬱積した国民が密かに歌ったのが「湖畔の宿」(作詩佐藤惣之助 作曲服部良一 歌高峰三枝子)の替え歌。〈♪きのう召されたタコ八は弾に当たって名誉の戦死 タコの遺骨はいつ帰る 骨がないので帰らない タコの親たちゃ可哀想 〉

 秋ふかく飯盒をカラカラと鳴らし食ふ    富澤赤黄男(武漢作戦の戦場で)

 花万朶天皇の兵日焼はや       片山桃史(ニューギニアで戦死直前に俳誌『琥珀』に送った最後の句。桃史の                   遺骨は帰っていない。)

  (「春耕」27年8月号掲載) 

㉑浅草徘徊「大根や」とSKD

 東京メトロ銀座線浅草駅の一つ手前、田原町駅で降り、国際通りを西へ二分ほど歩き、左折して路地に入った先の左側に「大根や」がある。カウンター席が十脚ほどの小さな居酒屋である。店を取り仕切っているのは、通称アンちゃん(本名、安藤幸子)、この場所に店を開いてから半世紀を数える。

大皿に盛られたアンちゃん手作りの惣菜が十種類ほど客の目の前に並んでいる。店の年月から考えれば七十代のはずだが、ジーパンにズック靴がトレードマークのアンちゃんに老婆の翳はない。それもそのはず都バスの車掌だったアンちゃんは、都交通労組の婦人部長を務めた “筋金入り ”。

常連客の一人だった脚本家の灘千造さん(故人)も随筆『私の浅草』の中で、〈 憲法九条護持、非武装中立論の信奉者、ことそれに及ぶと侃侃諤諤、客といえども一歩もゆずらない。かつての婦人闘士を彷彿とさせるものがある。いつもジーパン姿。街を歩いていると、幼い子供に「おじちゃん?おばちゃん?」と問いかけられることが、よくあるそうだ。見かけは男っぽいが、本当は女らしく、家庭的…口は悪いが、代々の江戸っ子淡白で毒がないから、根にもたれない。〉と書く。

アンちゃんのもう一つの顔は、浅草国際劇場を根城にしたSKD(松竹歌劇団)の熱烈ファンで、店は踊子たちのエネルギー補給所でもあった。解散から二十年以上が過ぎても千羽ちどり、高城美輝らかつての大スターが姿を見せ、その追っかけのファンも。(老朽化した建物改築のため昨年暮れ、惜しまれて店を閉じたが、半年後、同じ場所で営業を再開した。)

浅草神社境内の句碑から三句―

翁の文字まだ身にそはず衣がえ        市川猿翁(初代猿之助)

竹馬やいろはにほへとちりじりに         久保田万太郎

生きるということむずかしき夜寒かな        川口松太郎

 (「春耕」27年8月号掲載) 

㉒石牟礼道子の全句集『泣きなが原』

石牟礼道子全句集
『泣きなが原』

 『苦界浄土』の作家、石牟礼道子の全句集『泣きなが原』(藤原書店)が二〇一五年五月に出版された。俳人、穴井太の勧めで一九八六年に出した四十句収載の初句集『天』から三十年の時を経ての第二句集である。

 穴井は七一年に北九州市で文学学校「天籟塾」を開設、講師として招いた石牟礼とは、知己だった。だが、句作もしていることは、彼女が七三年夏、新聞に寄稿した文章中で〈 祈るべき天とおもえど天の病む 〉の句と出合うまで知らなかった、と句集『天』の編集後記に記している。

 当の石牟礼自身は「俳壇の人間でもなく、時としてひょろりと出てくるものに句集と名づけるのもおこがましい。…こんなものが世間の片隅に出て行くのが、恐縮やら恨めしいやら、九重高原のはしっこの、ひともとの芒のようになって、おじぎをするばかりである。」と初句集のあとがきで一人歩きを始めた自句への戸惑いを書いている。

 後年、幻の初句集を入手した俳人、黒田杏子は〈 祈るべき… 〉の句と〈 さくらさくらわが不知火はひかり凪 〉を好きな秀句として上げる。黒田は、藤原書店の季刊誌『環』に石牟礼が俳句を寄せていたことを知っていた。一五年二月、東京の学士会館で開かれた「藤原書店二十五周年」記念パーティーに招かれた機会に社長の藤原良雄に「『天』はまぼろしの名句集になっている。いま句集を読みたい人は大勢いる。石牟礼道子全集『不知火』も完結したのだから、ぜひ石牟礼さんの全句集を急いで刊行を」と直訴、これに藤原が応え、三か月後のスピード刊行になったと、全句集の解説で明かしている。
 全句集のタイトル『泣きなが原』は収録句〈 おもかげや泣きなが原の夕茜 〉 から採られた。石牟礼は現在八十八歳になる。(敬称略)

 (「春耕」27年9月号掲載) 

㉓江戸っ子のファストフード握り鮓
 
安倍首相、オバマ大統領との会食
(Wikipediaから転借)

昭和二十年代、“正義の味方黄金バット”の人気紙芝居作家だった加太こうじ。家康の江戸入府から続く江戸っ子の末裔は、昭和三十年代に入ると、昭和期の東京下町の庶民生活を知り尽くした博覧強記を生かし、時代考証、風俗文化評論家として活躍したが、東京庶民の味覚の伝統にこだわった美食家でもあった。

「鮪は赤身に限る」と刺身も握り鮓も赤身を好み、「トロ?ありゃあ、進駐軍の兵隊が旨いと言い出す前までは、捨てていたごみの部分だ」と言って憚らなかった。赤身と言っても、築地から極上品を取り寄せるグルメで、仲間を葛飾金町の自宅に呼んで気前よくご馳走してくれた。

「握り鮓は、江戸時代中期に日本橋にあった魚河岸の連中向けの屋台の立食いが始まり。料亭や割烹の座敷で食うものじゃなかった。労働者の食い物だから握り鮓の飯はでかかった。近ごろはネタの魚よりも飯が小さい握り鮓が高級という風潮があるが、本来、鮓は飯を食うもの、魚がたべたきゃ飯といっしょなどとケチなこと言わないで、刺身でも焼き魚でも食べろってね」これは、作家の小島政二郎、玉川一郎、漫画漫文の宮尾しげをら子供のころ互いに屋台の握り鮓を食べて育った少数派東京っ子の共通の思いだと。

いま、和食は世界文化遺産になり、握り鮓も高級料理の一つに。平成二十六年(2014)に来日したオバマ米大統領を安倍首相が案内した会食先は、ミシュランの連続三ツ星鮓店「すきやばし次郎」(東京銀座数寄屋橋)。十八貫三万円コースからの超高級鮓店だが、カウンター席が十席ほど、屋台から始まった鮓屋の歴史を忘れない店主、小野二郎(89歳=二十七年九月現在)の心意気か。

高根より下りて日高し鮓の宿       河東碧梧桐
  鯵の鮨つくりなれつゝ鳳仙花        水原秋櫻子

 (「春耕」27年9月号掲載) 

㉔俳句がノーベル文学賞を受賞する日

T.トランストロンメル
(Wikipediaから転借)

十月はノーベル賞発表の季節。昨年(二〇一四)は、青色発光ダイオード(LED)の発明により赤崎勇、天野浩、中村修二の三氏が物理学賞を受賞、列島に久々の朗報となった。その一方で文学賞の本命と言われていた村上春樹氏が受賞を逸し、春樹ファンを落胆させてから早くも一年が経つ。

 二〇〇六年のフランツ・カフカ賞受賞以来、ノーベル文学賞の有力候補として世界が注目してきた村上氏が十度目の正直で賞を手にするかは、神のみぞ知るところ。それは後しばらくのお楽しみだが、俳人がHAIKU詩人として大賞を受ける日もそう遠くないかも知れないという話はいかが。

 理由は、すでにノーベル文学賞受賞者に「俳句詩」が受賞業績に含まれている詩人がいるからだ。二〇一一年に受賞のスウェーデンの詩人、トーマス・トランストロンメル氏がその人。音楽性のある自然描写を隠喩で謳い上げる短い自由詩で知られ、「メタファーの巨匠」の名を持つ。

その詩形式は、まさしく俳句。同氏の俳句への造詣は深く、詩集『悲しみのゴンドラ』(思潮社刊)の訳者、エイコ・デュークさんによると、〈 (搭載の)俳句詩の原句はすべて五七五の韻を正確に踏んでいる。〉という。世界一の短詩に惹かれた詩人の言葉から。〈 ヴィジョンが三行(俳句の型)に入り込むのは、サーカス芸人が二十米の高みから水を張った小桶を目指して跳び込むようなもの。〉詩人は今年(二〇一五)三月、ストックホルムで死去。享年八十三歳。

詩集の俳句詩(エイコ・デューク訳)から二句

高圧線の幾すじ 凍れる国に絃を張る 音楽圏の北の涯て
  つがいの蜻蛉 固く絡んだままの姿 揺らぎ揺らいで飛び去る
 
  語学のできる俳人による翻訳紹介が、俳句のノーベル文学賞への道を開く。

  (「春耕」27年10月号掲載) 

㉕浅草徘徊 喫茶店「ピーター」

浅草国際劇場が姿を消して早や三十年余り。大劇場をホームグラウンドにしていたSKD(松竹歌劇団)も解団して二十年を数える。宝塚と競い、水の江瀧子、川路龍子、小月冴子、並木路子、淡路恵子、草笛光子、倍賞千恵子らのスターを輩出したSKD。最後のトップスター男役の春日宏美は、歌えて踊れる舞台女優として、いまも現役でがんばっている。

 春日が“実家 ”のように立ち寄るのが、浅草ビューホテル(国際劇場跡)に近い合羽橋通りの喫茶店「ピーター」。開店が東京五輪の年の昭和三十九年の小さな喫茶店の女主人は、“ピーターママ ”が愛称の佐東正子さん。SKDファンだったことから元踊子が開いた店を手伝うようになり、二年後に店主となって半世紀。舞台で歌い、踊りお腹をすかした踊子たちの“食堂 ”としてメニューに載せたのが、カレーライス。「私は半端なことが嫌い」という正子さんの努力が実り、いまでは「カレーの美味い喫茶店」としてグルメ誌でも紹介される店に。

 ピーターのもう一つの目玉は、黄金バットの紙芝居作家、評論家の加太こうじさん(故人)が店の壁面に描いた壁画「浅草ビッグパレード」。浅草で活躍したエノケン、田谷力三、SKDの水の江ターキーら往年のスター、浅草大好きの作家、永井荷風やチャップリン、黄金バットまでずらり。先に紹介した居酒屋「大根や」の“アンちゃん ”と正子ママは、性格は正反対だが「SKD命」同士で仲良し。向うは千羽ちどり、こちらはいまも春日宏美の“おっかけ ”のたまり場だ。

 浅草神社の三匠句碑からー

ながむとて花にもいたし頸の骨        西山宗因
  花の雲鐘は上野か浅草か        松尾芭蕉
  ゆく水や何にとどまるのりの味       宝井其角

  (「春耕」27年10月号掲載)

㉖「戦争は、悪の豪華版」と詠って散った詩人
 竹内浩三
(Wikipediaから転借)

 日本大学に学び、半年の繰り上げ卒業で学徒兵として応召、フィリピンで二十三歳で散った若き詩人の遺稿集『竹内浩三全作品集 日本が見えない』(小林察編・藤原書店刊)が、人々に感動を与えてから十五年経つ。ときあたかも安保関連法が国民多数の反対の声を押し切って安倍政権の下で成立、七十年の平和日本が崩れようとしているとき、同じ編者の手で『骨のうたう“芸術の子”竹内浩三』(藤原書店刊)が刊行された。表題の詩「骨のうたう」から引く。

〈 戦死やあわれ/兵隊の死ぬるやあわれ/とおい他国で ひょんと死ぬるや/だまって だれもいないところで/ひょんとしぬるや/…/ああ 戦死やあわれ/故国の風は 骨を吹きとばした/故国は発展にいそがしかった/女は 化粧にいそがしかった/なんにもないところで/骨は なんにもなしになった〉

〈この「骨」が、今も「うたう」ことができるとしたら、平和憲法の精神を踏みにじって海外派兵を急ぐこの国の現状を、いったい何と表現するであろうか。すでに七十三年前、日本大学専門部映画科の学生であった彼は、教科書の余白に詩「日本が見えない」を書きしるした。〉と編著者の小林察さんは詩を引く。〈 日本よ/オレの国よ/オレにはお前が見えない/一体オレは本当に日本に帰ってきているのか/なんにもみえない/オレの日本はなくなった/オレの日本がみえない 〉

 竹内は、昭和十七年九月、繰り上げ卒業一か月後、故郷三重県の中部第三十八部隊に入営。翌年九月、茨城県西筑波飛行場に編成された滑空部隊に転属、十か月間激しい訓練の日々を過ごしつつ、小さな手帖二冊の「筑波日記」をときには便所の中で記す。彼のアフォリズム「鈍走記」から伏字の二行を引く。〈 ××は、×の豪華版である。/××しなくても××はできる。〉戦争・悪・戦争・建設が隠し文字である。

 我を撃つ敵と劫暑を倶にせる 片山桃史(東部ニューギニアで戦死、三十三歳)

 (「春耕」27年11月号掲載)
 
㉗心太を一本箸で食む風習

 二〇一五年の夏、春耕の立川羽衣句会で〈 心太一本箸で掬ひけり 〉の句が投句されたとき、作句者、山田えつ子さん以外の誰も心太を一本箸で食べる風習の地域が存在することを知らなかった。

コラム子は、この句の清記紙が回ってきたとき、子供のころ煮物を一本箸で突き刺して母に「縁起でもない」と叱られたことを思い出した。長じて高盛飯に箸一本を突き立て死者に供える “食い別れ ”の葬式習慣を知る。自分の知識の抽斗にない事柄を詠んだ句に接したとき、大方の連衆は選句を控えてしまう。

点盛りが終ると、早速、心太と一本箸の関わりの質問が飛んだ。「郷里の岐阜地方では、心太は一本箸で食べます」と投句の山田さん。調べてみると、確かに愛知県(特に名古屋地方)、新潟県、福島県と周辺県(ちなみに岐阜県は愛知県の隣接県)にそうした風習があり、越後一宮の弥彦神社周辺の茶店では、添えられる一本箸が塗り箸だということも分った。

なぜ一本箸なのか。諸説あるが、『語源由来辞典』などによると、古来「凝海藻(こるもは)」と呼んでいたテングサ(天草)を煮溶かす製法を遣唐使が持ち帰り、製品を「古古呂布止(こころふと)」と呼び、俗に「心太」の二字が当てられた。時代とともに「こころたい」→「こころてい」→「こころてん」→「ところてん」に転訛、心太の当て字が残ったのだという。

で、一本箸だが、歴史的に初めは公家貴族の嗜好品だったことは明らかで、菓子と見られ、黒文字(和菓子用の太楊枝)で食べていた。それが庶民にも普及、地域によって一本箸の風習が残ったと推測するのだが、いかがだろうか。

清滝の水汲ませてやところてん     松尾 芭蕉
  御輿洗ひの雨となりけり心太      神藏  器
  心太ひとり食うぶるものならず      山田みづえ

  (「春耕」27年11月号掲載)

㉘放哉俳句と師の添削

 
尾崎放哉

 平成二十六年秋、自由律俳人、尾崎放哉の終焉の地、香川県小豆島の西光寺奥の院、南郷庵を訪れた。高松港から土庄港まで高速艇で三十五分。港から閑散としたメインストリートを歩くこと二十分、路地奥の南郷庵に辿り着いた。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、〈 障子あけて置く海も暮れ切る 〉放哉句の大看板。後ろに尾崎放哉記念館となった復元南郷庵、右手に広大な墓地。墓地の起点になる庵の前には四、五メートルの高さにピラミッド状に積み上げられた無縁墓碑。墓地は丘の上部へ階段状に続き、放哉の墓は、彼を堂守として受け入れた西光寺の杉本宥玄住職らの眠る僧院墓域の片隅にあった。

 吉村昭の伝記小説『海も暮れきる』は、妻の馨とも別れ、一燈園、常称院、須磨寺、常高寺の寺男として転々、行き場を無くした放哉が、師、荻原井泉水の口添えで小豆島に辿り着いた夏の日から始まる。島で放哉は、手を差し伸べる人々にも悪態をつきながら、肺結核により四十一歳で亡くなるまでひたすら吐息のごとく俳句を吐き、師に添削を委ねて送り続け、「詩人として死ぬ」念願を果たす。その苛烈な八か月余を作家自身の結核体験に重ねて描き切った力作だ。

 種田山頭火と放哉を育てた井泉水は、放哉にとっては一高、帝大の一年先輩であり、遁世後は生活と俳句を託した師であり、迫る死に追われつつ生み出した句は、推敲せずに師へ。師も弟子の句を放哉佳句として手を添えたのである。

南郷庵吟句を結社誌『層雲』雑吟搭載句から引く(括弧内は原句)。

 卵子袂に一つゞゝ買うてもどる(卵子二つだけ買うてもどる両方のたもと) 
 障子あけて置く海も暮れ切る(すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く)

  口あけぬ蜆死んでゐる(口あけぬ蜆淋しや)
  ゆうべ底がぬけた柄杓で朝(ゆうべ杓の底がぬけた今朝になつて居た)

 (「春耕」27年12月号掲載)

㉙ご当地(名産)を詠んだ俳句

 若狭の蒸鰈

 平成十四年に「東尋坊」でメジャー歌手入りし、続く翌年の「鳥取砂丘」が大ヒット。以来「NHK紅白歌合戦」連続出場中の演歌歌手、水森かおりは、「ご当地ソングの女王」の異名を持つ。紅白で歌った曲だけでも「鳥取砂丘」「釧路湿原」「五能線」「熊野古道」「ひとり薩摩道」「輪島朝市」「安芸の宮島」「松島紀行」「庄内平野 風の中」「ひとり長良川」「伊勢めぐり」「島根恋歌」と続く。

 ご当地(名産)俳句と言えば、まず正岡子規の人口に膾炙した代表句
  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 旧制松山中学の教員だった夏目漱石の下宿 (愚陀仏庵)に五十日ほど仮寓した子規は、句仲間らと俳句三昧の日を送った後、帰京の途次奈良に立ち寄り、東大寺や法隆寺を巡る。宿で御所柿を食べているとき東大寺の鐘が鳴った。帰京後に法隆寺と柿の取り合わせを思い付き、右の句を詠んだと、『ホトトギス』(一九〇一年四月号掲載)の随筆「くだもの」で自解している。

 左党にうれしいご当地俳句となれば、〈 若狭には佛多くて蒸鰈  森澄雄 〉。
  若狭湾から揚る鯖、柳鰈の美味は説明するまでもない。森の主宰誌『杉』で編集長を務めた愛弟子、上野一孝氏は、自著『森澄雄作句熟考』で同句に触れ、〈 福井県の小浜には、古仏を蔵する古寺が多い。…羽賀寺、円照寺、妙楽寺、多田寺、国分寺、明通寺、満徳寺、…お水送りで知られる神宮寺などがある。…「若狭には佛多くて」とは、若狭では多くの寺で多くの仏像を蔵しているという、事実を踏まえた表現ではある。しかしこの句の場合、「蒸鰈」という土地の食生活と密接に関わりのある季語を配したことを見逃してはならない。「蒸鰈」を置くことで、寺や仏を守ってきた人々への思いが彷彿としてくるのだ。〉と書く。

 米の香の球磨焼酎を愛し酌む      上村占魚

 (「春耕」27年12月号掲載)
 
㉚毘沙門天と百足虫(むかで)
 
 毘沙門天善国寺 
 (Wikipediaから転借)

  JR飯田橋駅西口から牛込橋を下り、外堀通りを横切って神楽坂を上って行くと、中間点をやや過ぎた左側の坂沿いに毘沙門天善国寺がある。本尊の毘沙門天は、芝正伝寺、浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれ、庶民の信仰を集めてきた。軍神であり、同時に財宝や福徳を司る神様の毘沙門天には、武の虎と財の百足の両神使がおり、ご開帳の正月初寅、二の虎、五月初寅、九月初寅に配られる縁起物「百足小判」通称「ひめ小判守」が大人気だったという。

 毘沙門天のお使いの百足は、百の足で福を掻き込み、足が多いので“お足が増える ”、客足がつき“商売繁盛 ”になると、人々が競ってお守を受けたが、江戸から東京へ変わる中で忘れられていった。これが地元の歴史研究家らの熱心な復活呼びかけに住職が応え、平成二十五年の正月初寅からご開帳日(一月、五月、九月の寅の日)限定で約百年ぶりに復刻、頒布が再開された。

 軍神としての毘沙門天の神使はまず百足だったという説もある。戦国武将たちは、毘沙門天に戦勝祈願をするとともに神使の百足が一糸乱れず素早く走り、けして後退することがないとして、自らの武具甲冑、旗指物に百足の図案を取り入れている。猛将、武田信玄の甲冑に描かれた百足図はよく知られている。

 俳人にとって正月の七福神巡りは、欠かせない吟行機会の一つだが、福の神それぞれの神使(の獣鳥魚虫類)を句材の参考にご紹介しておく。恵比寿神(鯛)、大黒天(鼠)、毘沙門天(虎、百足)、福禄寿(鶴)、寿老人(鹿)、弁財天(蛇)、そしてなぜか布袋尊のみ神使はいない。

 硬球の縫目のごとき百足虫かな    齋藤朝比古
踏まれしは百足の姿に生れしゆえ    大山安太郎

百足虫ゆく畳の上をわるびれず    和田 悟朗

  (「春耕」28年1月号掲載)
 
㉛回文の和歌&俳句
  最近はすっかり廃れてしまったが、正月二日の夜、〈 長き夜の遠の睡りの皆目醒め波乗り船の音の良きかな 〉の和歌を書き入れた七福神の「宝船」の絵を枕の下に置いて寝ると「吉夢」が見られるという風習が江戸期から明治、大正、昭和まで残っていた。

 この詠み人不詳の和歌、逆さから読んでも同じ音になる回文歌。〈なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな 〉室町時代(十六世紀)に流布した『運歩色葉集』と言う通俗辞書に紹介されているので、「宝船」の風習もそのころから広がったようだ。

 やはり詠み人知らずながら「波乗り船」と並ぶ有名回文歌二首を記す。
 〈 村草にくさの名はもし具はらはなそしも花の咲くに咲くらむ 〉〈 惜しめともついにいつもと行春は悔ゆともついにいつもとめしを 〉

 幕末期に回文の名手として一千句以上の俳句、和歌を残したのが、廻文師、仙代庵(細屋勘左衛門1796年―1869年)。仙台市博物館の菅野正道さんの『仙台城下「町人列伝」』(仙台商工会議所月報「飛翔」搭載)によると、伊達藩仙台城下荒町の有力な麹屋の主人だったが、店を跡取りに任せ、早くに隠居して、酒と回文三昧の日々を送り、長寿七十四歳の幸せな人生を全うした。

「町人列伝」からエピソードを一つ。ある日、朝から酒を飲んだ仙代庵が自宅近くの清水小路で足を滑らせて脇の溝に落ちた。すかさず捻り出した文句が〈 飯前の酒今朝の戒め 〉の回文。仙代庵の回文三句と回文歌一首を記す。

〈 はかなの世しばしよしばし世の中は 〉〈 わが身かも長閑かな門の最上川 〉〈 嵯峨の名は宿りたりとや花の笠 〉〈 みな草の名は百と知れ薬なりすぐれし徳は花の作並〉三首目の和歌はご当地、仙台作並温泉も巧みに詠み込んでいる。

  (「春耕」28年1月号掲載)
 

㉜「国を守る」と言う言葉の悪夢

 「国を守る」と言う言葉は美しい。それゆえに逆らうこともならず戦火に散った兵士二百八十万人、一般市民八十万人。美しい言葉を大義名分に無謀な太平洋戦争の引き金を引いた軍部。その大いなる反省に立ち、憲法九条を掲げて歩んできた戦後七十年の平和主義が「国を守る」の言葉で揺れている。

 「国を守る」戦争の実体を学徒兵詩人、竹内浩三は、肌身離さず身に着けていた小さな手帖に書き止める。〈 戦争ガアル。ソノ文学ガアル。ソレハロマンデ、戦争デハナイ。感動シ、アコガレサエスル。…戦争ハ美シクナイ。地獄デアル。地獄モ絵ニカクトウツクシイ。…〉終戦の年、フィリピンで戦没、二十三歳。

 二度目の応召で終戦一年前に東部ニューギニアに三十三歳で散った片山桃史。日野草城に師事、師が俳誌『旗艦』を創刊するとともに同人参加、新興俳句運動を推進した俳人の一人だ。桃史は支那事変勃発で昭和十二年に応召、中国各地を約二年八か月転戦、この間に軍事郵便で俳誌に送り続けた「戦場より」百八十一句と「戦争以前」百四句を搭載した句集『北方兵団』一冊を残した。

 〈 桃史の戦争俳句の基本、特色は戦場や兵士をリアリズムで迫真的に詠むところである。〉(『挑発する俳句 癒す俳句』筑摩書房刊)と川名大氏は書き、〈 冷雨なり二三は遺骨胸に吊る 〉を引いて、鈴木六林男の句解を紹介する。

〈 この作は、骨にするゆとりがあったことを示している。熄みなく戦闘がつづくと荼毘にする暇がない。又それをすると煙が目標になって砲撃されるおそれがある。それで、戦死者の腕は肘から切断して靴下に収めて腰に吊って行動する。夏季は、悪臭と蠅だ。…これが戦場の現実である。〉(「『片山桃史集』管見」)

戦場句から四句。〈 我を撃つ敵と劫暑を倶にせる 〉〈 射ちつくし壕すてざりし屍なり 〉〈頑是なき人に銃擬す秋風裡 〉〈 ひと死ねり御勅諭を読む日課なり

  (「春耕」28年2月号掲載)
 
㉝粋な役者俳人守田一万尺
 
故坂東三津五郎丈 
(Yahoo画像から転借)

 十代目坂東三津五郎(本名守田寿)が膵臓がんのため五十九歳で逝って、二月二十一日(平成二十八年)が一周忌。歌舞伎界きっての粋でいなせな色男は、俳句が大好きな歌舞伎役者だった。平成十三年に八十助から十代目襲名を機に歌舞伎役者の慣習に従い、爽寿の俳名を名乗ることになった。

 平成二十七年一月号の本欄でも「歌舞伎役者と俳名」のタイトルで紹介したが、江戸中期以降、歌舞伎役者が俳名(俳号)を持つようになり、いまに至っている。だが、俳名はあっても俳句を嗜まない役者が多く、三津五郎もこまつ座季刊誌「the座」(No.73)で「今、実際にやっているのは、松本幸四郎さん、市川團十郎さんと僕くらいじゃないかな。」と語っている。

三津五郎の場合、祖父(八代目 俳号是真)が高浜虚子の門下であり、八代目夫人の祖母喜子も俳句好き。その祖母と小学生のとき、京都の祇王寺に詣でたとき、「なんでもいいから素直に詠んでごらん」と言われ、〈 祇王寺やかえでの赤や竹の青 〉と詠んだところ、「それでいいのよ」と褒められたという。六十歳でがんで逝った祖母は〈枯れ草のいましばしの命かな 〉の辞世の句を残した。

 襲名直後に新聞の新春対談で黛まどかさんと出会ったのが縁で、黛さん主宰の「百夜句会」のメンバーになり、爽寿の俳名は使わず、一万尺の俳号で通す。

深草少将が小野小町に百夜通うと約束しながら、九十九日目に死んでしまった逸話にちなむ句会では、毎回かならず恋の一句を詠むルールで、初回提出句は〈 長き夜に君の名百も書きにけり 〉。黛さんの〈 会ひたくて逢ひたくて踏む薄氷 〉の句には〈 凍鶴のそのひと足の危ふさは 〉と返句。

 黛さんが襲名披露に贈った〈 花道に男が消えて冴返る 〉が追悼句になった。
 (「春耕」28年2月号掲載)
 

㉞暮れてなほ命の限り蝉しぐれ   中曽根康弘

中曽根康弘元首相 
(Yahoo画像から転借)

 今年(平成二十八年)九十八歳になる “大勲位 ”こと中曽根康弘元首相が八年前、卒寿記念に勧められて『中曽根康弘句集二〇〇八』(北溟社刊)を出した。旧制静岡高校時代以来詠み続けてきた中から三百九十八句を選句。「学生時代」「海軍時代」「国会議員」「首相時代」「首相退任後」「国会議員を辞して」の時代別構成で、人生最多忙の首相時代の詠句が搭載句の半数近くを占めている。

 句集に跋文を寄せた俳人、鷹羽狩行氏は、二十四句を上げ、詳細な鑑賞を綴り、〈 この一巻は政治家としての貫禄と俳人としての繊細、また政治活動の遠心力と句作の求心力、その絶妙な統合を示した奇跡的な句業の集大成。…長寿の秘訣の一つに俳句があったことに違いないと、しみじみ思う 〉と書く。

昭和十六年、海軍主計中尉として乗り組んだ巡洋艦「青葉」の士官室で「腹の虫」と題する一文に〈 俳句に籠める無意識の本質を見抜く勘が俳句であり、東洋的把握の方法だ 〉と俳句観を記す。そして、国鉄改革など首相として大業を成し遂げた七十余年後、俳句に向かう姿勢を「まえがき」で吐露する。

〈 俳句は私の人生行路の盟友である。私の(人生の)旅路に同行二人で付き合ってくれている間柄だ。この間には、敗戦、国の独立回復、政争や外遊、山居など目まぐるしく人生は変わったが、その度ごとの心境の浮沈、直観、時にはもののあわれを催して俳句に託した。〉句集から数句を紹介する。

悲しみの峯雲へ向け鳩放つ(広島平和記念式典)

慟哭にぬかづく丘の蝉しぐれ(長崎原爆記念式典)

菖蒲湯を王者のごとく浴びにけり(首相としての貫禄かと鷹羽氏)

 老妻にせかれてあける柚子湯かな( 大勲位も妻には頭があがらない。)

 木枯や一本の杉たぢろがず(卒寿にして、この気迫と鷹羽氏)

 (「春耕」28年3月号掲載)
 

㉟縮みゆく残の月の明日知らず   大道寺將司

 掲題句は、確定死刑囚、大道寺將司が、自ら第四句集『残(のこん)の月 大道寺將司句集』(太田出版二〇一五年刊)のタイトルに選んだ近詠句である。

第一、第二句集も合せた千二百句搭載の第三句集『棺一基 大道寺將司全句集』(同出版刊)から三年。企業連続爆破事件の主犯の一人として、処刑の刻を待ちつつ独房生活四十年、隔絶された拘置所病舎でがん(多発性骨髄腫)の激痛に耐えつつ詠んだ四百九十句から引く。

 〈 いくそたび告げられし死ぞ草青む 〉〈 ゆくすゑは土塊一つ穴惑 〉〈 被曝せる獣らの眼に寒昴 〉〈 加害せる吾花冷えのなかにあり 〉〈 蝉啼きて死囚の刻のありやなし 〉〈拒食する自裁もあらむ夜盗虫 〉

 句集に添付の栞に長文の賛『俳士大道寺將司へ ――蝉のこゑ秋津の鬼になれと言ふ』を寄せて歌人、福島泰樹氏は書く。(サブタイトルは大道寺句)

 〈 狼は繋がれ雲は迷ひけり / 九条も螻蛄の生死も軽からず / 冬ざれの天に拳を突き上ぐる / … 

この矜持あったればこそ、氏は死ぬことを拒否し、戦い続けるのである。〉

〈 逮捕時は二十六歳であった。句集にみられる野、霜、虹、霧、星、花、海、蝉などは、二十六年間の、記憶と想像からなされたものである。この鮮やかな幻視の妙を見よ! とんぼうの影を墓石に映しけり

悠然としたスケールの大きい想像力の妙を観よ! 海底の山谷渡る鯨かな

そして、日本の行く末をこう慨嘆する。 蒼氓の枯れて国家の屹立す 〉と。

〈 棺一基四顧茫々と霞けり 〉から句集名を取り、「第6回日本一行詩大賞」を歌人、永田和弘氏の歌集『夏・2010』とともに受賞した句集『棺一基』も『残の月』も作家で詩人、逸見庸氏の強い説得と推挙があって、句集刊行が実現したことを書き止めて置く。

 (「春耕」28年3月号掲載)
 

♪BGM:Chopin[Nocturn20]arranged by Reinmusik♪


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