私のヒロシマ・ノート
〜64周年の原爆記念日に寄せて〜


★私たち日本国民は、人類史上初めて、そして唯一の原子爆弾被爆国の人間として、今年(2009年)8月6日(広島)と9日(長崎)に64周年の原爆記念日(原爆忌)を迎えました。

★オバマ米国大統領は今年4月、訪問先のチェコの首都プラハでの演説で「アメリカは、核兵器を使ったことがある唯一の核保有国として、行動する道義的責任がある。核兵器のない世界に向けて具体的な方策を取る」と述べ、原爆を攻撃兵器に使用したアメリカの最高責任者として、初めて使用国の道義的責任を口にし、核廃絶を目指すことを約束しました。

★私は、5年前の04年8月6日、機会を得て広島を訪れ、59周年の広島平和記念式典と原水爆禁止ヒロシマ大会に参加、改めて原爆の惨禍を実感しました。世界的に核廃絶の流れが加速することを願い、「ノーモア・ヒロシマ」の風化を懸念する一人として、5年前にしたためた“私のヒロシマ・ノート”を披露させていただきます。(写真は筆者撮影)


原爆ドーム 元安川越しに原爆ドームを望む


被爆モニュメントの前での違和感

これまでにも仕事などで広島を訪れる機会があり、原爆ドームや広島平和記念資料館には何度か足を運んだ。原水禁ヒロシマ大会に参加する機会を得て、被爆モニュメントに再会した私は、少々違和感を感じていた。資料館の陳列が、訪れるたびにスマートになり、生々しさが薄れているような気がしたのだ。

★陳列されている惨禍の遺品の一つ一つの放つインパクトに変わりはないのに何かソフトになっている。私の抱いた違和感を解くカギが、2日目の夜に会った被爆者、下原隆資さんの話の中にあった。


資料館のごちゃまぜ人形

★「みなさん、資料館に行かれたとき、原爆の熱線で皮膚のとろけた両腕を前に突き出した被爆人形を見たでしょう。私らは、あれをごちゃまぜ人形と呼んどるんですよ。爆心地から1,500b以内にいた人は、露出していた肌がどこもかしこも人形の腕のようにとろけたんです。人形は服を着ていますね。服が燃えなかったのは2,000b以上はなれた場所にいた人。あの人形の顔には、火傷がなかったでしょう。それは爆心から3,000b以遠にいた場合なんですよ。両腕が人形のようにとろけた被爆者は、顔も無残にとろけ、服は燃え、裸になっていたんです」

★あの被爆モデルの人形が資料館に陳列されることになったとき、下原さんら被爆者たちは人形の被害表現のごちゃまぜを指摘し、訂正を館側に求めた。

「むごすぎたら見学者が来ん」


当時の館長は「ごちゃ混ぜは承知している。顔まで腕と同じように表現したら,むごたらしすぎて見学者が来んようになる」と答えたという。

★「そう言われて、私たちは引き下がりましたが、あれでもむごたらしいですが、ほんとうの被爆の姿はもっともっと目をそむける悲惨なものだったのです」とこめかみから唇にかけて大きな裂傷の跡を持つ下原さんは静かに説明してくれた。私が抱いた違和感は、そんなソフト化の配慮にあったのだ。


心を捉える『ヒロシマ原爆の記録−』

★参加した分科会で、被爆直後の人々を36_フィルムで撮影した30分のビデオ『ヒロシマー原爆の記録』を見た。日本人カメラマンが写したこの生々しく、むごいフィルムの存在を知ったアメリカ軍は、ただちに没収したのだが、押収される前に密かにコピーされた一本のフィルムが占領から解放された後、関係者の努力で優れたドキュメンタリー作品となって、いまも多くの人々に核兵器の惨禍をストレートに伝えている。

★故宇野重吉の淡々としたナレーションで展開される被爆者の悲惨には、手が加えられておらず、そのことが見る者の心を一層強くとらえることを、ソフト化を配慮する人たちに訴えたい。悲劇を繰り返さないためには、悲惨から顔をそむけてはならないと思う。


原爆死没者慰霊碑(奥に原爆ドームを望む) 原爆の子の像

歴史年表に風化させてはならない

★私はいま、ヒロシマ、ナガサキを、日本が近代国家として大国ロシアに初めて挑んだ日露戦争とダブらせている。1904(明治37)年2月から1年2ヶ月余りの戦いだったが、戦力劣勢の日本軍が革命前夜のロシア軍の足並みの乱れに助けられ、辛うじて勝ちいくさとなった戦争である。

★日露戦争の終結59周年は、1964(昭和39)年、東京オリンピックが開催された年だった。そのとき28歳の私にとって、日露戦争は自分が生まれる遥かな昔、明治時代の歴史年表に風化していた。

★幸運な勝利で終わった日露戦争に較べて、世界初の原爆被爆の惨禍を体験したヒロシマの記憶は、いまなお生々しい。だが、歳月の経過の中で風化は確実に進んでいる。ヒロシマ、ナガサキが人々に痛みを想像させない歴史年表になったとき、過ちが再び繰り返されることを私は恐れる。

★59年前の暑い夏の記憶は、ありのままを次の世代にかならず伝えて行かなければならない。その思いを改めて強くしたヒロシマへの旅だった。(04.8.13.記)

59周年原爆記念日式典の会場を埋めた参加者たち(平和公園で)

被爆者の言葉から

◆ 山城光明さん(72歳)=中学1年(13歳)のとき学校に立ち寄り被爆。

★カタカナのヒロシマが、だんだん影が薄れていくような気がします。そして、漢字の広島になっていく。(被爆後の広島に使っている)カタカナのヒロシマを、戦後を終わらせようとするものが働いているとしたら…。雁垂れに黄と書く戦前の廣島に戻っていく、不気味な大きなものが動いていないでしょうか。『戦争が終わって59年過ぎた』という言葉を聴いたら『たったの59年しか経っていないじゃないか』と繰り返してほしい。

◆ 下原隆資さん(74歳)=中学3年(15歳)のとき爆心地から1500mの地点で被爆。被爆の1週間後に実家のある能見島に8人が戻ったが、下原さんを除く7人は間もなく死亡。

★「お前は放射能を出すから向こうへ行け」と言われる差別が10年続きました。大阪の会社に就職しようと面接試験を受けたとき、顔の傷跡のことを訊かれ、被爆したと答えたら「うつる」という理由ではねられました。就職だけでなく、結婚でも被爆者差別は続いたんです。

◆ 広島発言(平和行進ボランティアの男性)

★今年も原水爆禁止大会に子供たちが参加していますが、ヒロシマ行進でやって来る子供たちに休憩のために学校の施設を借りようとすると「学校は政治に中立でなければならないので、使用は許可できない」と断わられるケースが毎年増えています。平和教育が偏向教育と言われる時代になってきました。私たちすべてが被爆者と思った方がいいのです。放射能物質をすべての人が体に蓄積しているのですから。

<04年8月4日〜6日の広島平和集会で会った原爆被爆者、平和集会参加者の発言からメモした。>



[参考映像] (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転借)
広島に投下された原子爆弾
(リトルボーイ)
長崎に投下された原子爆弾
(ファットマン)
ウラン原爆 プルトニウム原爆

広島に投下された原爆のきのこ雲
原爆投下前の広島市中央部
同心円の中心が爆心地
すぐ左上に目標の相生橋
画面右上の矩形は広島城

♪第2次大戦でナチス・ドイツのポーランド侵攻以後、ワルシャワの廃墟の中を生き抜いたユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を元にして2002年に制作されたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画『戦場のピアニスト』(原題ピアニスト)で、隠れ家で発見されたとき、ドイツ将校の所望で弾いた曲が、ポーランド作曲家ショパンの「バラード第1番」でした。

♪戦争の非道を訴えたこの映画は、カンヌ映画祭の最高賞「パルムドール」、アメリカのアカデミー賞の監督賞、脚本賞、主演男優賞他、各国で多くの賞を受賞したことは、ご存じの通りです。右のアイコンをクリックすると、主人公のピアニスト、シュピルマンが弾く「バラード第1番」が映像とともにご覧になれます。
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♪BGM:Chopin[Nocturne20]arranged by Reinmusik♪

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