私の戦争体験
〜64周年の終戦記念日&原爆記念日に寄せて〜

夜空を焦がす地獄絵図



 私の戦争体験の実感は、国民学校(小学校)の2年生から始まります。昭和19年11月14日の武蔵野市(当時は北多摩郡武蔵野町)の中島飛行機工場爆撃から本格的な米軍機の東京空襲が始まりました。「空襲警報発令」のたびに庭の防空壕に防空頭巾を被って駆け込み、空爆の地響きに息を殺す時間が次第に増えていきました。

父が中国大陸へ出征した後、幼い子供3人(長男の私と3歳の妹、そして生後間もない乳飲み子の弟)を抱えて世田谷の留守宅を守っていた母は、自分の実家がある岐阜に疎開を決意。私の2学期の終了を待って、母子4人は危なくなった東京を脱出し、安全と思われた岐阜に移ったのでした。  

昭和20年が明け、私が2年生の3学期に編入した疎開先の国民学校は、間もなく校舎の半分が兵舎に変わり、兵隊さんとの同居生活になりました。授業時間が少しずつ削られて、その分、栄養源確保のイナゴ獲りの時間が増えて行きました。「イナゴ3匹で卵1個の栄養がある」と先生に言われ、懸命に獲ったのを思い出します。

◆艦載機グラマンの機銃掃射とパイロットの笑う顔

 3年生になって2カ月ほどすると、教室の授業は点在する鎮守の杜での分散授業に変わり、小学生にも戦争の逼迫が肌で感じられるようになっていきました。このころ子供心にも心底「殺される!」と思った出来事が、64年経ったいまも鮮明に甦ってきます。

 鎮守の社の分散授業から下校するため、炎天下の藪川(根尾川下流の呼び名)の堤防道を歩いていると、警戒警報のサイレンが空襲警報に変わりました。身を隠す木陰もない場所から早く集落に辿り着こうと速足で急ぐ私の背後からプロベラ音が近づき、前方の河原に機銃掃射の音と土煙が走りました。

米軍艦載戦闘機グラマンF6F「ヘルキャット」
Wikipediaより転借


 思わず顔を上げると、藪川の川面に沿って艦載機のグラマンが超低空で飛び過ぎるところで、風防ガラス越しにパイロットが私を見ながら笑ったのがはっきりと分かりました。数機の編隊の1機でした。機銃掃射は、一人歩いている子供をびっくりさせ、からかうためだったのでしょう。ダダダダッという掃射音と線状に走る土煙に生きた心地のしなかったことと、敵機のパイロットが笑った真夏の情景が走馬灯のように浮かんできます。ちょうどいま小学4年生の孫坊主より1学年下の体験でした。

◆襲いかかる「B29」135機、岐阜市は灰燼と化す

  鎮守の杜の野外教室に通う日々が続いていた昭和20年7月9日夜遅く、空襲警報発令から間もなく東の方向の夜空が真っ赤に燃え、地鳴りのような音が連続して聞こえ始めました。私たち母子は、灯火管制で真っ暗な町並みから少しでも離れるために防空頭巾を被り、私は水の入った大きな薬缶を抱えて、はるか遠くに赤々と燃える空を背に夜道を野壷(肥壷)にはまらないように気を付けながら避難の流れに従っていました。熱気が東から襲ってくる中での逃避行でした。

  私たち母子が疎開していた町から東へ10数kmの距離に位置する岐阜市は、この夜135機のB29の空襲で文字通り灰燼に帰しました。資料によると米空軍は、東京、大阪、名古屋などの大都市、大工場の空襲が一通り終わり、標的を中小都市に向けた中でのオペレーションでした。ねらいは、@「こんな町までやられるようになっては」と国民の戦争意欲を喪失させること。A中小都市の産業の破壊――だったということです。

長距離戦略爆撃機B−29
フリー百科事典「ウィキペディア」から転借

◆記録が語る凄惨な地獄絵図

 「B29から投下される焼夷弾による津波のような攻撃で全市が燃え上がるのはあっという間だった」と記録されています。その凄まじい様子を記したホームページ「岐阜平和通信」から「岐阜空襲のあらまし」の記述を少し引用させていただきます。

  <岐阜駅周辺への第一撃につづき、キラキラと花火のように降ってき、ドーンと鈍い地響きとともに一面に火のついた油を飛び散らす焼夷弾は、柳ヶ瀬(筆者注:市内有数の繁華街で美川憲一のヒット曲「柳ケ瀬ブルース」で知られる。)の周辺部、金神社、明徳国民学校周辺から真砂町や本郷町あたりに集中。この中を人々は西へ西へと逃げようとしたが、金神社の森は熱風に煽られて竜巻のように燃え上がり、凱旋道路も廊下に油を流したように地面に火が走り、道路を横切ることもできない状況になった。>

焦土と化した岐阜市街地(HP「岐阜平和通信」から転借)

  <直撃弾を受けて無残に即死した子供、背に負った瀕死の父親を捨てて逃げざるを得なかった青年、目が見えず遠くに逃げられず近くの防空壕に入って焼け死んだ人、…雷のとどろくような空の下を人々は必死に逃げた。>

都市空襲で焼夷弾を投下するB29
フリー百科事典「ウィキペディア」から転借

◆衣服が焼け焦げ、煤に汚れた被災者の列

記録によると、この夜の空襲による死者は約900人、負傷者約1200人、焼失家屋は全体の約50%の約2万戸、住む家を失った人は約10万人で市民の約60%にあたりました。

  夜が明けると、私たちが疎開していた町の東西に伸びる通りは、衣服が焼け焦げ、顔も手も煤だらけになった人々の疲れ果て、放心した姿の避難の列が途切れることなく続きました。それは1週間近くつづいたと思います。

  私たち母子が借りていた和菓子屋の奥の隠居部屋と庭続きに外科医院があり、焼夷弾で焼かれた若い女性の重症患者が収容されました。痛みを和らげる手立てもなく、「痛いよー」「痛いよー」と終日聞こえてくる患者の悲鳴。しかし、2日目、3日目と日を経るうちに絶叫は次第に小さくなり、いつの間にか聞こえなくなっていました。

     

◆広島と長崎に新型爆弾が落とされた!

  岐阜市の市街が瓦礫に変わってから1ヶ月後の8月6日、国民学校3年生の私は、大人たちが「きのうB29から広島に新型爆弾が投下され、街が全滅したようだ」と話しているのを聞きました。間もなく大人たちは、新型爆弾を「ピカドン」と呼ぶようになりました。たった1発で即死者約14万人、負傷者約27万人という人類初の惨禍を引き起こした原子爆弾の投下を私は最初にこんな形で知らされたのでした。

  そして、同胞の悲劇がこの1発で終わらず、わずか3日後、2発目の原爆が米空軍のB29によって長崎市の上空で炸裂、7万4千人の生命を一瞬にして奪ったことを「長崎にも新型爆弾が落とされた」という形で小学生の私は知ったのでした。(09.8.1.記)


原爆ドームの前に立つ筆者
59周年平和祈念式の04.8.6.撮影

真夏のサトウヒビ畑に託して、沖縄戦の悲劇をしみじみと歌う森山良子の[さとうきび畑]が聞けます。You Tube



♪BGM:Ravel[亡き王女のためのパヴァーヌ]arranged by Reinmusik♪

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ヒロシマ・
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